Amitostigma’s blog

野生蘭と沖縄の植物

読める遺伝子、読めない遺伝子

Amitostigma lepidum seedling.

 今回は過去画像の整理。オキナワチドリ実生。

 純白花(遺伝子型1:「白馬」の後代)ヘテロと、無点花ヘテロの交配実生。

 ・地色が薄いので、純白遺伝子を受け継いでいる(隠し持っている)可能性がある。

 ・紅点が細かく分散しているので、おそらく無点遺伝子を受け継いでいる

 まとめて言うと「純白と無点のダブルヘテロ(出現率4分の1)」&「多因子形質の大輪&草丈を伸びにくくする両遺伝子群を選別交配で一株に集積(標準偏差的に出現)」のマルチ変異系統。

 が、外見からは遺伝子構成を正確に読み切ることはできないので、確定には検定交配が必要。無点は不完全顕性(不完全優性、レプタイル関連俗語の共優性)なので実生姉妹を比較すれば、どの子が保因個体なのかある程度まで読める。一方で純白は潜性(劣性)なので判りにくい。

 こちらは上記個体の姉妹実生。無点遺伝子を受け継いでいない個体は、こういうふうに紅点が集合して大きくなる。(ただし例外もあるので、見た目では確定できない)

 これらに限らず、今までさまざまな形質の多重変異血統を作り、育種素材として外部にリリースを続けてきた。しかし最近はランの自家育種をする余裕のある趣味家がいなくなった。開発途上の未完成品に興味を持つのは開発者だけである。どんな遺伝子を隠し持っていたとしても、見た目が完成の域に達していなければ「消費者」は手を出さない。

 というか今の時代はモノも情報も多すぎて、消費娯楽を楽しむ時間すら足りない。実生育成は趣味としてタイムパフォーマンスが悪すぎる。買ってきてすぐ飾れて、少し育ったら刻んで欠片にして売れる観葉系のほうが時代に合っている。

 ちなみに大輪花のほとんどは唇弁がフリル状に波打つ。うまく形質制御できれば豪華なイメージの花になるが、一方で花型が乱れやすくもなるため「ぐしゃっと丸めたティッシュペーパー」と評されるような鑑賞的に微妙な花も生まれてくる。完成の域に持っていくのはかなり面倒である。

 姉妹株で一番背の低い個体。撮影時の草丈45mm、花径20mm。強光下で育てると、ブラキ系のパフィオのような頭身になる。SDキャラっぽい。

 

 こちらは別系統で、唇弁の乱れを極力減らして平滑な唇弁を目指した無点花。フリフリの花と、どちらが良いかは好みの問題。すっきりと背丈が伸びて山野草的な魅力があるが、弱光だと間延びして草姿がだらしなくなる。

 オキナワチドリは(花を見るだけで良ければ)少し工夫するだけで育てられるが、展示会などに出せるレベルに作りこむとなると環境設定がそれほど簡単ではない。というか、展示会の時期に合わせて花期を調整するだけでもかなり面倒臭い。

 これがパフィオであれば花期が長く、開花時期を展示会に合わせるのも比較的容易。専門業者のレンタル栽培場に預けておけば平日の管理を代行してくれるし、播種・育苗や選別栽培も外部委託できる。展示会という「競技」に適しているため世界的に「競技人口」が多く、同好の士を見つけやすく生産業者も山ほどいる。対人的なアピール要素がオキナワチドリとは比較にならないくらい多い。

 

 まあ、園芸市場にもさまざまなオキナワチドリが流通はしていた。しかしそれらが一般園芸店で販売されることはなかったし、マイナー品種はネットを探しても画像すら見当たらない。園芸植物としての知名度はゼロに近く、専門卸商まで出向いてバックヤード在庫を問い合わせなければ入手できなかった。今後も一般流通することは無いだろう。

 「無点花」だけに絞っても、探せば種内変異がいくらでも見つかった。こういう少し変わった個体たちを手に入れて、どれとどれを交配すれば自分の好みの花が生まれるか想像し、誰も見たことのない「その先」を創っていくのは面白かった。

オキナワチドリの育種(純白花)

Amitostigma lepidum (Hemipilia lepida) , alba form.

2017 deflask seedling.

オキナワチドリ純白花、2017年フラスコ出し実生。(選別個体の分球クローン寄せ植え)

「純白花・遺伝子型1」と仮称されている系統。

 

オキナワチドリ純白花には、要因遺伝子が異なる3つの系統がある。

  ・同系統内で交配すると、実生はすべて純白花になる。

  ・異なる系統同士で交配すると、実生はすべて標準花になる。

 

(過去記事に長文の説明があるが、ブリーダー以外にはまったくの無駄知識なので読む必要はない)

 ちなみに「遺伝子型1」は古典品種「白馬(はくば)」の実生後代である。

 市場流通している実生純白花の多くは遺伝子型1だと思われる(遺伝子型2、3はあまり増殖されていない)が、外見からは見分けがつかない。まあ、普通の人は見分ける必要も無いだろう。

 昭和時代にはオキナワチドリは「馬づらチドリ」と蔑称されており、「白馬」という品種名もそれを意識したものらしい。

 縦長の花が駄目なら横に長くしてやろう! という方向性で品種改良したのが冒頭の個体。ついでに間延びしやすい草姿も改良し、背の低いコンパクトな個体にしてみた。葉質や弁質も厚く傷みにくくした。増殖率も良くなっている。

 しかし、そういう工夫は無意味だった。

 一般園芸家にとってチドリ類は消耗品である。多少丈夫になった程度では、どのみち長生きさせるのは難しい。どうせ枯れるなら、球根を植え付けてすぐ花の咲くイワチドリや、ド派手に改良の進んだウチョウランのほうが飾り捨て用として優れている。

 さらにオキナワチドリはガチで管理しないと花が縮んで貧相になる。慣れない人が育てた場合、枯れはしなくても、もともと貧相な白花と区別がつかなくなる。要するに何を育てても一緒である。

 というか一般的な「植物好き」のレベルだと、花型の違いまで理解していない。色が赤いか白いか程度まではぼんやりと認識しているが、色が同じだと改良花と野生花を並べて見せても区別がつかない。ミリタリーマニアでない人間が戦車と自走砲を並べて見せられたような感じになる。

 こちらは冒頭個体を花粉親にして、円弁個体と交配した実生。花はより大きく、草姿はさらにコンパクトにまとまった。これを交配親にして実生すれば次世代でより優れた純白花が得られる・・

・・はずなのだが、育てていく心が折れたので先月に処分した。今後はもうオキナワチドリの育種をする予定は無い。

 

 こちらも遺伝子型1だが、上記とは別血統。花径は23mm、これが純白花としては現時点で最大級の個体だが、花型に乱れが認められ改良の余地がある。

 昭和の野生ランブームの頃には一緒に育種を競うライバルもいたし、選別した個体を進呈すると鉢一杯に殖やしてくれる趣味家もいた。小型地生蘭を維持増殖できる栽培家はもともと1万人に1人のレベルではあったが、昭和の野生ランブームの頃、趣味人口が数十万人いる時代には数十人が栽培維持してくれた。

 しかしほとんどの野生ランは真面目に栽培するとコストパフォーマンスが悪すぎることが判ってきて、野生ラン栽培は情報弱者だけが手を出す趣味になった。オキナワチドリのブリーダーは全員が引退し、師匠や先輩方は鬼籍に入っていった。古典品種を野生植物コレクションの一部として管理している趣味家はまだ残っているようだが、オキナワチドリ栽培者自体がすでに絶滅危惧種である。

 まあ今でも園芸需要はある。人気が無いわけではない。しかしそれは消耗品としての需要であり、その先にあるのは虚無である。

こちらは別の育種ラインで選別した、細弁大輪系の純白花。(遺伝子型1)

これを花粉親に使って、細弁花と交配した個体が下の画像。

これを親に使って実生すれば(以下略)

先月に処分した。

 

 捨てたわけではないので、誰か育てられる方の手に渡った可能性も微粒子レベルで存在するが、期待はしていない。

大正期・沖縄工芸の植物装飾(後編)

 前編からの続き。

 琉球古典焼の壺。

 (狭義の)古典焼が作成されていたのは大正から昭和初期(戦前)の数十年だが、作成記録などがまったく残されていない。そのため作者や窯元、作成年代をピンポイントで確定するのは難しい。

 この壺の意匠はバナナの木ではなく、正真正銘のヤシの木。比較的レアな意匠である。

 実の大きさから見てココヤシだろうが、ココヤシは最寒月の平均気温が18℃以上でないと順調に生育できない。沖縄本島は自生北限を超えているので、しばしば植栽されているが生育は今ひとつ良くない。こういうふうに鈴なりに実が成っている光景は台湾以南でないと見られない。

 そういう植物がどうして沖縄工芸のモチーフになっているのかと言えば、本土向けのイメージ商品だからである。当時の情報感覚では沖縄もフィリピンもニューギニアもまとめて「南方」である。細けぇ事はいいんだよ。

 ここからまた陶芸史の記述になる。読み飛ばしても問題ない。

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 ともあれ、大正末期頃には古典焼はまぎれもなく沖縄を代表する工芸品であった。しかし初見時のインパクトが薄れ、ブームが一巡した昭和初期には売れ行きが少しずつ落ちてきた。

 やはり何というか、作品の出来がちょっと・・いや、このユルさが「ブリキのおもちゃ」や「昭和の怪獣ソフビ人形」と共通する、古典焼の持ち味なんだよ!(力説)

 ・・などと思っている趣味家が当時、どの程度いたかは定かではないが、昭和13年に決定的に状況が動いた。「民芸」という造語を日本に広めその概念を根付かせた開拓者、日本民藝協会の初代会長にして日本民藝館の初代館長、今なお芸術界の巨人と評される柳宗悦(やなぎ むねよし)氏の来沖である。

 柳氏は「民衆の暮らしの用と、そこに宿る健全なる美が生き続けている聖地(意訳)」と沖縄を絶賛した。その一方、古典焼への評価はボロクソであった。

「装飾がいつも過剰で醜いものが多い。特に安ものは、あとで着色したりするので、一層いかものゝ感じがする。(中略)沖縄の焼物史の中で、寧(むし)ろ瀆(けが)れた一章を殘(のこ)すものと云(い)っていゝ」(「琉球の陶器」1942年)

 ひどい言われようである。

 まあ、たとえて言うならば「伝統人形の工房に行ってみたら、職人さん達は顔の造形が微妙な美少女風エロフィギュアに蛍光色を塗っていた」みたいな光景を見て絶句したのであろう。知らんけど。

 いずれにしても、酷評された古典焼は表舞台から姿を消すことになる。評論家は語ることすら避けるようになり、美術史から記述が抹消された。本土に渡った大量の品物は物置の奥に押し込められ、そのまま忘れ去られた。

 その後まもなく、長い混乱期がおとずれる。

 昭和16年、太平洋戦争が勃発。沖縄は戦いの炎に包まれた。那覇の士族街は残っていた工芸品と共に灰塵と化し、首里城は砲撃をうけて燃え尽きた。しかし近在でありながら壺屋地区は奇跡的に爆撃をまぬがれ終戦を迎える。

 昭和20年、占領軍は壺屋を住民に開放、100人ほどの陶工たちが「陶器製造産業先遣隊」として戻ってきた。やがて住民用の日用雑器だけではなく、米軍関係者向けのお土産陶器の製造も始まった。この時に陶工達が思い出した工芸品があった。

 そうッ! 古典焼である! 

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 戦後に作られた品だが、戦前の古典焼にも類似の意匠がある。これは大正初期に本土で流行していたという「エジプト文様」を取り入れたもの。具体的に言えばエジプトの壁画に着想を得たと言われる国籍不明の人物像と、花である。

 植物の種類?・・えーとその、花だ。細けぇ事は(略

 真面目に考察すれば、中国陶磁の代表的意匠である牡丹&唐草の写し(写してない)だと思う。ちなみに沖縄ではボタンの栽培は難しい。

 底面を見ると、出荷時の販売ラベルがきわめて保存の良い状態で残っており、アメリカ統治時代の沖縄で作られたことが判る。製造元は今も壷屋で営業を続ける「仁王窯」小橋川製陶所である。

 

 こちらは製造元は不明だが、松竹梅のペン立て。ものすごく手間がかかっている。作品の出来? 細k(略

 底面にはOKINAWAの刻印。ちなみに戦前の古典焼には「琉球」の刻印が押されていたりいなかったりする。作っている陶工や工房が連続しているので、刻印(もしくは線刻手書きの「琉球」)が無い作品だと時代特定が難しい。なお、沖縄陶器に作家の銘が刻まれるようになったのは本土復帰後、陶芸史的にはごく最近の事である。

 

 これは植物ではないが、参考までに龍模様のティーポット。蓋があったと思うのだが残念ながら失われている。

 「その当時、多くの陶工がアメリカ軍基地内のPX(管理人注:post exchange=軍隊内のコンビニ)に陶器を出していた。出荷した製品は、オリエンタル的な嗜好の強いもので、いわゆる古典焼に酷似したものが多かった」沖縄県立博物館紀要 第18号「壺屋と古典焼」)との事だが、米軍統治時代のお土産陶器は日本国内にほとんど残っておらず、図録などにも希にしか収載されていない。断片的な情報からすると、後にも先にも(いろいろな意味で)類例の無い製品が作られていたっぽいが、全容はよく判らない。

 そして本土復帰後も、観光客向けのお土産陶器の中に古典焼風のデザインは受け継がれている。

 現在の壺屋焼には「技のデパート」と呼ばれるほど多種多様な加飾技法が伝えられている。しかしそれらの技法のほとんどは琉球王朝時代には用いられた形跡が無く、古典焼のデザイン実験時代に導入されたものらしい。

 古典焼は壺屋の危機的状況を救った救世主であると同時に、さまざまな技術を花開かせる触媒でもあった、と言っても過言ではないだろう。過言だったらすまん。

 近年は古典焼の再評価が進み、博物館で展示会が開かれたり、復刻版の古典焼が作成されたり、一部のデザインが現代陶器に融合されていたり、その存在は今なお沖縄の工芸史に新たな活力を与え続けている。

 

 ・・というわけで話が綺麗にまとまったが、最後に種名同定しきれなかったものを貼っておく。

 株分かれした植物体はアロエっぽいが、花茎の特徴から見てリュウゼツランだと思う。戦前の写真(外部リンク)リュウゼツランの開花株が記録されているが、沖縄に導入されたのがいつ頃だったのかははっきりしない。ちなみにリュウゼツランの沖縄方言はルグァイ(蘆薈=中国語のアロエ)で、アロエと同じ呼び名である。だからどっちだよ。

 

 これは2001年10月の展示会「琉球古典焼 壷屋焼」(那覇市文化協会 古美術骨董部会)の図録から引用したもの。これを見て種名を当ててみろ! と言うのは15世紀ヨーロッパのヴォイニッチ手稿の植物画を見て、中米ナワトル語文化圏に実在する薬用植物(一部のみ。異説あり)だと特定するぐらいの難度である。

 

 たぶんコレと同じ植物ではないかと思うのだが、確証は無いまあ本土の方はこれを見ても、パパイヤ以上に正体不明だろう。植物名はあえて書かない。

現場からは以上です。

大正期・沖縄工芸の植物装飾(前編)

flower vase, 100 years ago.

made in Tuboya, Okinawa, Japan. 

 100年ほど前に沖縄本島・壷屋地区で作られた花瓶。

本土の骨董商から「ヤシの木の壺」として入手したもの。

 こちらは別の骨董商から入手した同時代の壺。植物に詳しい方ならすでにお判りだろうが、これらはヤシの木ではない。バナナの木である。(バナナは草本なので木と呼ぶのは間違いだという意見もあるが、細けぇ事はいいんだよ)

 最初の花瓶、裏側の植物装飾。これも「ヤシの木」とされていた。

 沖縄の庭先では普通に見かける木である。本土の方でもこの植物の名前はほぼ全員が知っているはずだが、名称当てクイズに答えられる方は少ないと思う。

 この画像も同じ植物である。こちらのほうが種名が判りやすいだろうか。

 

 正解はパパイヤの雌木。パパイヤは木ではなく草本だという意見もあるが、細けぇ事は(略

 パパイヤの木 - Google 検索

 昔は種子から育てたら雄木になって切り倒したりしたものだが、最近はメシベがある突然変異オス系統(両性花、一本だけで結実)や単為結果性の(オス木が無い場合は種無しになる)メス木クローン苗が流通するようになっている。

 余談だがパパイヤはムチャクチャ生育が早く、ある程度育った苗を植えれば4ヶ月くらいで実が成りはじめる。本土では寒くなると枯れるので露地で完熟パパイヤを得るのは無理のようだが、青パパイヤ(タイ料理のソムタムの材料にする)であれば普通の畑で収穫可能らしい。一年草扱いの夏野菜として栽培が広まっている模様。

 で、壺の話に戻る。これらの壺は、本体の成形技術を見ると熟練のプロの技が感じられる。ところが加飾は素朴というか何というか、小学生の夏休み工作レベルである。そのアンバランス感が謎である。

 素人陶芸教室でプロと子供が一緒に作った? いや、そうではない。こういう製品が美術品として大量流通していた時代があるのだ。

 これについて説明するには、大正時代の沖縄陶芸史の話から始めねばならない・・あ、長くなるので興味の無い方は飛ばして先に進んでください。

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 明治維新廃藩置県。それに続いて明治12年琉球王国は日本に併合された。(この時に清国への朝貢が強制終了されて日清戦争の要因の一つになるが、その話は置いておく)

 薩摩藩による従属化と貿易統制が消滅し、新生沖縄県と本土の間で自由な商業取引が始まった。

 陶磁器産業も例外ではなく、本土の工場で量産された安価な磁器が大量に流入してくるようになった。無骨な沖縄陶器の需要は落ち、非効率な手作り生産では価格的にも本土製品に対抗できない。琉球王府の定期的なお買い上げ、官窯としての保護優遇も消滅し、沖縄の陶工達には夢も希望も無くなった。

 そういう状況を打開したのは、沖縄に移住してきた本土出身の寄留商人達であった。

「非効率な手作り製品しか作れないなら、本土では非効率すぎて作れないモノを作って本土に売ればいいんじゃね?」 

 逆転の発想である。彼らの創造的マネジメントを受け、新商品の開発が始まった。

 こうして従来の陶器製品の表面に彫刻、粘土盛り付けなどでさまざまな立体造形を加えた輸出用陶器が爆誕した。名付けて琉球古典焼」。実際には古典でも何でもなく、古今東西の加飾陶磁器を参考にしてでっちあげた  創造した(当時の)現代アートである。

 今回紹介するのは実在の植物をモチーフにした製品のみだが、古典焼シリーズにリアルな意匠はそれほど多くない。むしろ空想の動植物や、エキゾチックでファンタジーな図案、熱が出た時に見る幻覚のような正体不明の模様などが多い。

 陶業地・壷屋は伝統技術と前衛美術が融合し、アールヌーボー様式と朝鮮陶磁の技法がせめぎあい、プロの思索とアマチュアの発想が合わさって新たな価値観が生み出される「デザインの実験場」と化した。

 「色が地味だな。彩色して追加焼成を・・何? 登り窯で薪を焚いて焼いているので二度焼きするほどの余裕は無いし、色絵は煤けて濁った色になります?・・よーし判った、製品の表面に塗料を塗ってカラフルな色にしよう。あとで色落ちします? 売る時に綺麗ならいいんだよ、細けぇ事は気にすんな」まことに創造的である。

 今回の大きいほうの壺、よく見ると地肌が赤いのがお判りだろうか。今は褪色してナチュラルな色になっているが、作成時には素肌に朱赤色の塗料がべったりと塗られ、当時の趣味人から「ペンキ塗り」と呼ばれていたらしい。ネットで検索すると保存の良い製品の画像が出てくるが、どこの国の工芸品だか判らない色である。

 しかし、これが本土によく売れた。売れて売れて売れまくった。大正10年には当時の皇太子殿下(昭和天皇)がお買い上げになったという記録もある。

 インターネットどころか航空路線すら無い(那覇ー羽田の就航は太平洋戦争後、昭和29年)時代、沖縄はまだ南海の彼方にある幻の国である。怪しげな国籍不明の陶器は、異世界文明エキゾチックオキナワの古典民芸品というイメージで受け入れられた。陶工には注文が殺到し(中抜きされて儲けは少なかったらしいが)廃業の危機から救われた。

 とは言え、加飾作業は手間暇がかかる。製品の表面に粘土を貼り付けて模様を刻む面倒な作業を、陶工自身がやっていたらいくら時間があっても足りない。そこで出てくるのが家内分業である。

 お父さんが作陶した壺の表面に、奥さんや子供が加飾して色を塗る。小学生の子供も一生懸命にお手伝いする。たいへん心温まる情景である。

 というわけで完成したのが冒頭の壺である。謎はすべて解けた! ・・製品の出来? 細けぇ事は気にすんな。

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 こちらはまた別の壺。上記作例よりも時代的に新しいものだと思われるが、これもバナナの木の意匠である。手作業で粘土を張り付け、真鍮を削って混ぜた銅系の緑釉を部分的に流して焼いている。雑なようだが製法はけっこうガチである。

 こういう細口のものは、泡盛蒸留酒)を詰めて販売するための容器、つまりお土産用の酒徳利である。完品として残っているものを見ると、木栓で封をしたあと抜けないように藁や布をかぶせて縛り、胴体には酒造所の紙ラベルが貼られている。しかし現存しているものはほとんどの場合、画像のように植物製の部分が風化して無くなっている。

 類似の製品が本土の骨董商からオークションにしばしば出品されているが、正体が判らなくなって「花瓶」として売られていることが多い。広口製品でも縛れるようにできているものは花瓶ではなく泡盛壺だった可能性もあるが、徳利以外は焼き締めの「南蛮壺」に入れられているほうが多かったようだ。

 この画像のような品であれば単なるビンテージ空き瓶なので、管理人の小遣いでも普通に買える値段である。というか古典焼自体、陶芸品としては近代のもので現存数も多いため希少価値は高くない。一部の優品を除いて(平均的な出来はアレなので)市場評価は古物以上、古美術品未満である。

 裏側はパパイヤではなく蘇鉄(ソテツ)。

 参考資料として、「ちゃんぷるー別冊・琉球古典焼(2007年)」より諸見民芸館コレクションの画像を引用。

 この時代の製品は「バナナ&パパイヤ」の組み合わせが定番らしく、現存数が飛びぬけて多い。ソテツもたまに混じっているが、それほど数は多くない。後編で紹介するが、それ以外の実在植物は(陶器製品では)かなり稀である。

・・でまあ、似たような意匠ではあるものの、まったく同じものは一つも無い。古典焼シリーズは量産品ではあるが、すべて手作りの一点物。世界に一つだけのオンリーワンなのである。

 それを売りにした商品ではあったのだろうが、人件費の安い当時でもこれは非常識な作り方だったようだ。

「貿易品一千個あれば一千個共に彫刻してある。京都なれば一千個あれば型押し作である」(「泥中庵今昔陶話」昭和11年)という談話が残されている。

 というわけで人気を博した古典焼であったが、その黄金期は長くは続かなかった。

(後編に続く)

過去記事まとめ(オオミズトンボ種間交配)

2014年の原種親から、今年度(2022年、交配第3世代)までの経過。

Habenaria sagittifera

原資1:交配母体のミズトンボ、栽培下増殖個体。2014年、関東某所にて撮影。

ミズトンボの花のアップ。

 

Habenaria linearifolia

原資2:花粉親のオオミズトンボ、栽培下増殖個体。2014年撮影。

↓ 過去記事

 

Habenaria sagittifera X Hab. linearifolia = 50% sagittifera

ミズトンボ♀ X  オオミズトンボ♂ = 50%ミズトンボ(仮称チュウミズトンボ)

2017年撮影。

 

50% sagittifera X Hab.linearifolia = 25% sagittifera

50%ミズトンボ X オオミズトンボ =25%ミズトンボ(仮称ヤヤミズトンボ)

2019年撮影。

 

25% sagittifera X Hab.linearifolia = 12.5% sagittifera

25%ミズトンボ X オオミズトンボ =12.5%ミズトンボ(仮称ホボオオミズトンボ)

2022年、撮影者から送ってもらった画像(公開許可済)。コロナ流行のため取材に行けず詳細不明。

えーと、カニカマボコの「ほぼカニ」(商品名)みたいな感じ?

こちらは上画像の同交配・姉妹株。こちらもほぼオオミズトンボ。言われなければ雑種だと判らない。

「見かけをオオミズトンボに戻してしまったらミズトンボを交配した意味が無い。わけのわからない事をしている」と言われているらしいが、栽培担当者がミズトンボを使っている理由については、前述の過去記事を参照。

 

 こちらの画像は、交配過程で違う花粉親(オオミズトンボ)を使った12.5%ミズトンボ。この個体はミズトンボの特徴がまだ残っている。

 交配後代では「形質分離」によって顔の違う子供達が生まれてくるので、どれを次世代の親にしていくか悩ましい。

 というか「近交弱勢の回避、雑種強勢」がミズトンボ交配の主目的なら、特定個体のみが繁殖親に使われて、次世代がすべて近い血筋になってしまうのは望ましくない。

 持続的な利用を目的とする場合、できる限り多くの個体を繁殖に参加させ、育成過程でミズトンボの別個体も新たに交配親に加えて「繁殖集団としての多様性・健全性」を創設・増強していく必要がある。ハベナリアはイネやダイズのような近交系が作れる生き物とは違うのだ。

  こちらは上画像の個体と母親は同じで、違う花粉親(オオミズトンボ)を使った12.5%ミズトンボ。これはこれで面白い感じではある。おそらく稔性に問題は無いと思うので、交配選別を続けていけば、中国産のHabenaria schindleri に似た花を育成することも不可能ではなさそう。

naturelib.net

(上記サイトからの引用画像)

 

 ただしオオミズトンボ系は性質がクソ弱く、実際には育種するどころか系統維持すら困難。園芸的発展は技術者が言うところの「技術的には可能」というやつで、現実的には無理らしい。強化増殖に成功しても育成後継者がいないので、これらの育成品は栽培担当者が退職した時点ですべて絶種するだろうとの事。

 

 (以下余談。こむずかしい話なので読む必要ありません)

 

 動物の場合、核内にある遺伝子は両親から均等に受け継がれるが、核外にある細胞質遺伝子(ミトコンドリアDNA)は母親からしか受け継がれない。

 そのため他種の血が混じっている個体の遺伝子解析をする場合、核DNAを調べるか、ミトコンドリアDNAを調べるかで鑑定結果が別物になることがある。(前者は一代ごとに両親の遺伝子が混ざり合っていくが、後者は「突然変異がおきない限り」母親と同じ遺伝子が代々伝わっていく)

 被子植物でも核外遺伝子(葉緑体DNA、ミトコンドリアDNA)は一般的には母親だけから受け継がれるが、母系遺伝の縛りがゆるく、なぜか父親の核外遺伝子がごく一部だけ混入して受け継がれている事例も見つかっているらしい。

 さらに調査された被子植物のうち2割以上で、核外遺伝子が母系遺伝ではなかったそうだ。核内遺伝子と同様に両性遺伝だったり、動物とは逆に父親からだけ受け継がれたり、葉緑体ミトコンドリアが別々の親から受け継がれたりする種類もある模様。

被子植物の細胞質遺伝:https://www.jstage.jst.go.jp/article/plmorphol/23/1/23_1_25/pdf/-char/ja

 上記論文にはシュンランの場合ミトコンドリアは母系遺伝、という記述があるが、ミズトンボ類の細胞質遺伝については調べても情報が見つからなかった。今後の研究に期待したい。

 なお、葉緑体には葉色や光合成能力、ミトコンドリアには耐暑性などに関わる調節遺伝子が存在するので、別種由来の核外遺伝子を持つ個体は(核内遺伝子が同一でも)栽培しやすさが違ってくる可能性がある。

 交雑種群において外見的には基種と見分けがつかないけれど、ミトコンドリアのみが他種のものに置き換わっている実例はすでに報告されている。「外見は基種のまま、核外遺伝子のみを入れ換える育種」というものがあることを、頭の隅に置いておく必要があるように思う。

参考:人のミトコンドリア病(指定難病21) – 難病情報センター 

 

 最後はオマケ画像。25%ミズトンボの自然結実個体を実生したものだそうで、花粉親は不明。見た感じではセルフ実生っぽい。染色体に問題があるのか性質は弱く、育てるには難があるそうだがチュウミズトンボ系の雑種としてはけっこう面白いと思う。