前編からの続き。
琉球古典焼の壺。
(狭義の)古典焼が作成されていたのは大正から昭和初期(戦前)の数十年だが、作成記録などがまったく残されていない。そのため作者や窯元、作成年代をピンポイントで確定するのは難しい。
この壺の意匠はバナナの木ではなく、正真正銘のヤシの木。比較的レアな意匠である。
実の大きさから見てココヤシだろうが、ココヤシは最寒月の平均気温が18℃以上でないと順調に生育できない。沖縄本島は自生北限を超えているので、しばしば植栽されているが生育は今ひとつ良くない。こういうふうに鈴なりに実が成っている光景は台湾以南でないと見られない。
そういう植物がどうして沖縄工芸のモチーフになっているのかと言えば、本土向けのイメージ商品だからである。当時の情報感覚では沖縄もフィリピンもニューギニアもまとめて「南方」である。細けぇ事はいいんだよ。
ここからまた陶芸史の記述になる。読み飛ばしても問題ない。
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ともあれ、大正末期頃には古典焼はまぎれもなく沖縄を代表する工芸品であった。しかし初見時のインパクトが薄れ、ブームが一巡した昭和初期には売れ行きが少しずつ落ちてきた。
やはり何というか、作品の出来がちょっと・・いや、このユルさが「ブリキのおもちゃ」や「昭和の怪獣ソフビ人形」と共通する、古典焼の持ち味なんだよ!(力説)
・・などと思っている趣味家が当時、どの程度いたかは定かではないが、昭和13年に決定的に状況が動いた。「民芸」という造語を日本に広めその概念を根付かせた開拓者、日本民藝協会の初代会長にして日本民藝館の初代館長、今なお芸術界の巨人と評される柳宗悦(やなぎ むねよし)氏の来沖である。
柳氏は「民衆の暮らしの用と、そこに宿る健全なる美が生き続けている聖地(意訳)」と沖縄を絶賛した。その一方、古典焼への評価はボロクソであった。
「装飾がいつも過剰で醜いものが多い。特に安ものは、あとで着色したりするので、一層いかものゝ感じがする。(中略)沖縄の焼物史の中で、寧(むし)ろ瀆(けが)れた一章を殘(のこ)すものと云(い)っていゝ」(「琉球の陶器」1942年)
ひどい言われようである。
まあ、たとえて言うならば「伝統人形の工房に行ってみたら、職人さん達は顔の造形が微妙な美少女風エロフィギュアに蛍光色を塗っていた」みたいな光景を見て絶句したのであろう。知らんけど。
いずれにしても、酷評された古典焼は表舞台から姿を消すことになる。評論家は語ることすら避けるようになり、美術史から記述が抹消された。本土に渡った大量の品物は物置の奥に押し込められ、そのまま忘れ去られた。
その後まもなく、長い混乱期がおとずれる。
昭和16年、太平洋戦争が勃発。沖縄は戦いの炎に包まれた。那覇の士族街は残っていた工芸品と共に灰塵と化し、首里城は砲撃をうけて燃え尽きた。しかし近在でありながら壺屋地区は奇跡的に爆撃をまぬがれ終戦を迎える。
昭和20年、占領軍は壺屋を住民に開放、100人ほどの陶工たちが「陶器製造産業先遣隊」として戻ってきた。やがて住民用の日用雑器だけではなく、米軍関係者向けのお土産陶器の製造も始まった。この時に陶工達が思い出した工芸品があった。
そうッ! 古典焼である!
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戦後に作られた品だが、戦前の古典焼にも類似の意匠がある。これは大正初期に本土で流行していたという「エジプト文様」を取り入れたもの。具体的に言えばエジプトの壁画に着想を得たと言われる国籍不明の人物像と、花である。
植物の種類?・・えーとその、花だ。細けぇ事は(略
真面目に考察すれば、中国陶磁の代表的意匠である牡丹&唐草の写し(写してない)だと思う。
ちなみに沖縄ではボタンの栽培は難しい。
底面を見ると、出荷時の販売ラベルがきわめて保存の良い状態で残っており、アメリカ統治時代の沖縄で作られたことが判る。製造元は今も壷屋で営業を続ける「仁王窯」小橋川製陶所である。
こちらは製造元は不明だが、松竹梅のペン立て。ものすごく手間がかかっている。作品の出来? 細k(略
底面にはOKINAWAの刻印。ちなみに戦前の古典焼には「琉球」の刻印が押されていたりいなかったりする。作っている陶工や工房が連続しているので、刻印(もしくは線刻手書きの「琉球」)が無い作品だと時代特定が難しい。なお、沖縄陶器に作家の銘が刻まれるようになったのは本土復帰後、陶芸史的にはごく最近の事である。
これは植物ではないが、参考までに龍模様のティーポット。蓋があったと思うのだが残念ながら失われている。
「その当時、多くの陶工がアメリカ軍基地内のPX(管理人注:post exchange=軍隊内のコンビニ)に陶器を出していた。出荷した製品は、オリエンタル的な嗜好の強いもので、いわゆる古典焼に酷似したものが多かった」(沖縄県立博物館紀要 第18号「壺屋と古典焼」)との事だが、米軍統治時代のお土産陶器は日本国内にほとんど残っておらず、図録などにも希にしか収載されていない。断片的な情報からすると、後にも先にも(いろいろな意味で)類例の無い製品が作られていたっぽいが、全容はよく判らない。
そして本土復帰後も、観光客向けのお土産陶器の中に古典焼風のデザインは受け継がれている。
現在の壺屋焼には「技のデパート」と呼ばれるほど多種多様な加飾技法が伝えられている。しかしそれらの技法のほとんどは琉球王朝時代には用いられた形跡が無く、古典焼のデザイン実験時代に導入されたものらしい。
古典焼は壺屋の危機的状況を救った救世主であると同時に、さまざまな技術を花開かせる触媒でもあった、と言っても過言ではないだろう。過言だったらすまん。
近年は古典焼の再評価が進み、博物館で展示会が開かれたり、復刻版の古典焼が作成されたり、一部のデザインが現代陶器に融合されていたり、その存在は今なお沖縄の工芸史に新たな活力を与え続けている。
・・というわけで話が綺麗にまとまったが、最後に種名同定しきれなかったものを貼っておく。
株分かれした植物体はアロエっぽいが、花茎の特徴から見てリュウゼツランだと思う。戦前の写真(外部リンク)にリュウゼツランの開花株が記録されているが、沖縄に導入されたのがいつ頃だったのかははっきりしない。ちなみにリュウゼツランの沖縄方言はルグァイ(蘆薈=中国語のアロエ)で、アロエと同じ呼び名である。だからどっちだよ。
これは2001年10月の展示会「琉球古典焼 壷屋焼」(那覇市文化協会 古美術骨董部会)の図録から引用したもの。これを見て種名を当ててみろ! と言うのは15世紀ヨーロッパのヴォイニッチ手稿の植物画を見て、中米ナワトル語文化圏に実在する薬用植物(一部のみ。異説あり)だと特定するぐらいの難度である。
たぶんコレと同じ植物ではないかと思うのだが、確証は無い。まあ本土の方はこれを見ても、パパイヤ以上に正体不明だろう。植物名はあえて書かない。
現場からは以上です。