Amitostigma’s blog

野生蘭と沖縄の植物

大正期・沖縄工芸の植物装飾(前編)

flower vase, 100 years ago.

made in Tuboya, Okinawa, Japan. 

 100年ほど前に沖縄本島・壷屋地区で作られた花瓶。

本土の骨董商から「ヤシの木の壺」として入手したもの。

 こちらは別の骨董商から入手した同時代の壺。植物に詳しい方ならすでにお判りだろうが、これらはヤシの木ではない。バナナの木である。(バナナは草本なので木と呼ぶのは間違いだという意見もあるが、細けぇ事はいいんだよ)

 最初の花瓶、裏側の植物装飾。これも「ヤシの木」とされていた。

 沖縄の庭先では普通に見かける木である。本土の方でもこの植物の名前はほぼ全員が知っているはずだが、名称当てクイズに答えられる方は少ないと思う。

 この画像も同じ植物である。こちらのほうが種名が判りやすいだろうか。

 

 正解はパパイヤの雌木。パパイヤは木ではなく草本だという意見もあるが、細けぇ事は(略

 パパイヤの木 - Google 検索

 昔は種子から育てたら雄木になって切り倒したりしたものだが、最近はメシベがある突然変異オス系統(両性花、一本だけで結実)や単為結果性の(オス木が無い場合は種無しになる)メス木クローン苗が流通するようになっている。

 余談だがパパイヤはムチャクチャ生育が早く、ある程度育った苗を植えれば4ヶ月くらいで実が成りはじめる。本土では寒くなると枯れるので露地で完熟パパイヤを得るのは無理のようだが、青パパイヤ(タイ料理のソムタムの材料にする)であれば普通の畑で収穫可能らしい。一年草扱いの夏野菜として栽培が広まっている模様。

 で、壺の話に戻る。これらの壺は、本体の成形技術を見ると熟練のプロの技が感じられる。ところが加飾は素朴というか何というか、小学生の夏休み工作レベルである。そのアンバランス感が謎である。

 素人陶芸教室でプロと子供が一緒に作った? いや、そうではない。こういう製品が美術品として大量流通していた時代があるのだ。

 これについて説明するには、大正時代の沖縄陶芸史の話から始めねばならない・・あ、長くなるので興味の無い方は飛ばして先に進んでください。

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 明治維新廃藩置県。それに続いて明治12年琉球王国は日本に併合された。(この時に清国への朝貢が強制終了されて日清戦争の要因の一つになるが、その話は置いておく)

 薩摩藩による従属化と貿易統制が消滅し、新生沖縄県と本土の間で自由な商業取引が始まった。

 陶磁器産業も例外ではなく、本土の工場で量産された安価な磁器が大量に流入してくるようになった。無骨な沖縄陶器の需要は落ち、非効率な手作り生産では価格的にも本土製品に対抗できない。琉球王府の定期的なお買い上げ、官窯としての保護優遇も消滅し、沖縄の陶工達には夢も希望も無くなった。

 そういう状況を打開したのは、沖縄に移住してきた本土出身の寄留商人達であった。

「非効率な手作り製品しか作れないなら、本土では非効率すぎて作れないモノを作って本土に売ればいいんじゃね?」 

 逆転の発想である。彼らの創造的マネジメントを受け、新商品の開発が始まった。

 こうして従来の陶器製品の表面に彫刻、粘土盛り付けなどでさまざまな立体造形を加えた輸出用陶器が爆誕した。名付けて琉球古典焼」。実際には古典でも何でもなく、古今東西の加飾陶磁器を参考にしてでっちあげた  創造した(当時の)現代アートである。

 今回紹介するのは実在の植物をモチーフにした製品のみだが、古典焼シリーズにリアルな意匠はそれほど多くない。むしろ空想の動植物や、エキゾチックでファンタジーな図案、熱が出た時に見る幻覚のような正体不明の模様などが多い。

 陶業地・壷屋は伝統技術と前衛美術が融合し、アールヌーボー様式と朝鮮陶磁の技法がせめぎあい、プロの思索とアマチュアの発想が合わさって新たな価値観が生み出される「デザインの実験場」と化した。

 「色が地味だな。彩色して追加焼成を・・何? 登り窯で薪を焚いて焼いているので二度焼きするほどの余裕は無いし、色絵は煤けて濁った色になります?・・よーし判った、製品の表面に塗料を塗ってカラフルな色にしよう。あとで色落ちします? 売る時に綺麗ならいいんだよ、細けぇ事は気にすんな」まことに創造的である。

 今回の大きいほうの壺、よく見ると地肌が赤いのがお判りだろうか。今は褪色してナチュラルな色になっているが、作成時には素肌に朱赤色の塗料がべったりと塗られ、当時の趣味人から「ペンキ塗り」と呼ばれていたらしい。ネットで検索すると保存の良い製品の画像が出てくるが、どこの国の工芸品だか判らない色である。

 しかし、これが本土によく売れた。売れて売れて売れまくった。大正10年には当時の皇太子殿下(昭和天皇)がお買い上げになったという記録もある。

 インターネットどころか航空路線すら無い(那覇ー羽田の就航は太平洋戦争後、昭和29年)時代、沖縄はまだ南海の彼方にある幻の国である。怪しげな国籍不明の陶器は、異世界文明エキゾチックオキナワの古典民芸品というイメージで受け入れられた。陶工には注文が殺到し(中抜きされて儲けは少なかったらしいが)廃業の危機から救われた。

 とは言え、加飾作業は手間暇がかかる。製品の表面に粘土を貼り付けて模様を刻む面倒な作業を、陶工自身がやっていたらいくら時間があっても足りない。そこで出てくるのが家内分業である。

 お父さんが作陶した壺の表面に、奥さんや子供が加飾して色を塗る。小学生の子供も一生懸命にお手伝いする。たいへん心温まる情景である。

 というわけで完成したのが冒頭の壺である。謎はすべて解けた! ・・製品の出来? 細けぇ事は気にすんな。

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 こちらはまた別の壺。上記作例よりも時代的に新しいものだと思われるが、これもバナナの木の意匠である。手作業で粘土を張り付け、真鍮を削って混ぜた銅系の緑釉を部分的に流して焼いている。雑なようだが製法はけっこうガチである。

 こういう細口のものは、泡盛蒸留酒)を詰めて販売するための容器、つまりお土産用の酒徳利である。完品として残っているものを見ると、木栓で封をしたあと抜けないように藁や布をかぶせて縛り、胴体には酒造所の紙ラベルが貼られている。しかし現存しているものはほとんどの場合、画像のように植物製の部分が風化して無くなっている。

 類似の製品が本土の骨董商からオークションにしばしば出品されているが、正体が判らなくなって「花瓶」として売られていることが多い。広口製品でも縛れるようにできているものは花瓶ではなく泡盛壺だった可能性もあるが、徳利以外は焼き締めの「南蛮壺」に入れられているほうが多かったようだ。

 この画像のような品であれば単なるビンテージ空き瓶なので、管理人の小遣いでも普通に買える値段である。というか古典焼自体、陶芸品としては近代のもので現存数も多いため希少価値は高くない。一部の優品を除いて(平均的な出来はアレなので)市場評価は古物以上、古美術品未満である。

 裏側はパパイヤではなく蘇鉄(ソテツ)。

 参考資料として、「ちゃんぷるー別冊・琉球古典焼(2007年)」より諸見民芸館コレクションの画像を引用。

 この時代の製品は「バナナ&パパイヤ」の組み合わせが定番らしく、現存数が飛びぬけて多い。ソテツもたまに混じっているが、それほど数は多くない。後編で紹介するが、それ以外の実在植物は(陶器製品では)かなり稀である。

・・でまあ、似たような意匠ではあるものの、まったく同じものは一つも無い。古典焼シリーズは量産品ではあるが、すべて手作りの一点物。世界に一つだけのオンリーワンなのである。

 それを売りにした商品ではあったのだろうが、人件費の安い当時でもこれは非常識な作り方だったようだ。

「貿易品一千個あれば一千個共に彫刻してある。京都なれば一千個あれば型押し作である」(「泥中庵今昔陶話」昭和11年)という談話が残されている。

 というわけで人気を博した古典焼であったが、その黄金期は長くは続かなかった。

(後編に続く)