Amitostigma’s blog

野生蘭と沖縄の植物

オキナワチドリの枯らし方(その1)

Amitostigma lepidum, unnamed seedling in 2018.

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オキナワチドリ実生。

 ネットを見ていると、オキナワチドリを育てている人はそこそこ見つかる。が、栽培情報を書いてくれている方があまり見当たらない。備忘録的に「枯らし方」をメモしておくことにする。

 え、枯らし方?と思う方もおられるだろうが、育て方というものは栽培者の栽培環境によってそれぞれ最適解が異なる。違う環境の人が他人の育て方を表面だけ真似しても、総体的なバランス調整に失敗して枯らしてしまうことは珍しくない。

「これをやったら成功しました」は多くの場合、唯一無二の成功手段ではない。他にも成功につながる方法は探せば見つかるものだ。前述のように他人を下手に真似するとかえって痛い目を見る場合すらある。

 一方で「これをやったら失敗します」を無自覚にやらかした場合、栽培条件にかかわらず致命的な結果になる。命を扱う現場では「これだけはやってはいけない」という禁忌事項を先に学んでおく必要がある。

 余談だが医師国家試験のマークシートには「これを選んだら絶対アカン」選択肢がさりげなく混ぜられている。気がつかずにそれを選ぶと「医者になる資格が無い」と判断されて、他が全問正解でも問答無用で不合格になる。(通称「ドボン問題」)

 

1:弱った苗を買う

 オキナワチドリの生育状況を観察してみると、当年の植物体は「球根に蓄積されている前年度の栄養分によって生長している」と考えるのが妥当のように思われる。つまり当年に吸収・生産された栄養分は新球根に蓄積され、翌年になってから使用されているような「印象」がある。(根拠は無い)

 前年に劣悪な扱いをうけていた苗だと、新球根のサイズはある程度大きくなっていても、その内部は水分ばかりで栄養分が充分に蓄積されていない。そういう球根を植え付けると、どれほど良好な栽培をしても最低でも翌年まではまともな生育をしてくれない。虚弱な品種だと一度衰弱させてしまうと順調に生育するようになるまで数年以上、回復に5年も6年もかかる事すら珍しくはない。

 自分の作場における最適解を把握していない人が、弱っている苗を入手してしまったら試行錯誤しているうちに枯れてしまう。適切に管理できたとしても、生きるでもなく枯れるでもなく・・という状態がいつまでもグズグズ続く。1年や2年で「これは駄目だ」と決めつけて、管理の手を抜けば枯死一直線だ。

 山から掘ってきたばかりの苗を購入する、などというのは問題外。盗掘の是非とかいう問題以前に、苗の扱いが粗雑で商品として落第点のものが多い。特に沖縄本島産の野生個体は性質の虚弱なものが多い。自生地と栽培場では環境が異なるので適応させるのも容易ではない。栽培経験値の高い人でなければ翌年まで生かしておけるかどうかも疑問である。採取時に新球根がちぎれていたりしたら、栽培の達人でも回復させるのは無理だろう。

 一方で充実した栽培球であれば、植えつけて真面目に灌水していればとりあえず花は咲く。そのあと充実した新球根ができているかどうかは栽培者の育て方しだい。翌年に「作上がり」してより大きな株になっていれば(とりあえずは)栽培成功。

 しかし栽培状況が最適解からずれていた場合、分球して数は増えても新球根のサイズが小さくなってしまう。翌年の植物サイズも球根に見合った小型株になる。オキナワチドリの場合、栄養状態が悪くなっても着花数にはあまり変化がなく、全体の大きさだけがどんどん縮んでいく。「なんだか小さくなったけれど、このほうがかわいい♪ 花数も減ってないし問題なさそう♪」などと能天気なことを言っているうちに毎年衰弱が進んで、最後には回復不能になる。

「すごく元気だったし、毎年殖えていたから育て方は間違ってなかったはずなんだけど・・安心して気を抜いたせいで枯れたかな?」などと無自覚に語っている方をしばしば見かけるのだが、入手した時の生育は前年の養分を使っているので、生育状況と栽培者の栽培能力は比例していない。でっかいヒヤシンスの球根を買えば水栽培でも花が咲くが、それはあなたの栽培技術で咲かせた花なのか?

 気を抜いた? 一体いつから ーー 気を抜いていないと錯覚していた?

 というか普通の人の「園芸」は花が終わったらそのまま捨ててしまう消費栽培なので、買ったあと花が咲くまで生きていれば一般人にとっては「栽培に成功した」だったりする。

 「わーい花が咲いたよ~」と無邪気にインスタで報告。いやいやいやその育て方ではそのうち消滅します、ガセ情報をまき散らすのはやめましょう、と言ったところで相手はガチで世話をする気は最初から無い。一般社会の「育てる」とマニア基準の「育てる」は意味が違っている

 そしてちょっと手間をかけて3年も生かしておければ、中級者相手には十分にマウントがとれるのがこの世界である。マニア連中を集めた栽培説明会で「最低でも10年は維持できなければ育てられるとは言わないです」と発言すると、冗談だと思われて会場から笑い声が聞こえてくる。(実体験

 オキナワチドリには採集後30年以上も栽培下で維持されている品種がいくつもある。個体寿命は最低でも40年くらいはあると思うのだが、「上級者」の方々は5年や6年の「栽培」で満足しておられるのだろうか。

(余談だが、ウチョウランは70年くらい育てられた品種は分球が止まり維持できなくなると古参栽培家の間で経験的に言われている。「個体寿命」があるので生長点培養でウイルスフリー再生するか、他株と交配実生して血統として残さなければ系統保存できないらしい)

 では初心者相手には? ・・ウチョウランとイワチドリを取り違えてSNSに載せ、嬉しそうに語っておられるような方々(けっこういる)に、求められてもいないコメントをして不快にさせるのは礼儀知らずというものだ。

 もし話を振られても「すごーい! とってもかわいい花ですねー、何という名前ですかー?」とか、まず最初に相手のやっている事を肯定しておくのが会話のマナーである。あとは何もわからないふりをして、相手からの教えを乞うとさらに喜ばれる。「それは違いますね、正確には・・」などと、否定から入って情報提供しようとするのは最低最悪である。

 定型者が求めるものは正しい知識ではなく、他者からのふんわりした賛意と共感である。花は生活を彩る消費アイテムの一つ、他者と話題を作るためのネタ素材にすぎない。

 本気で育てようとする熱量の無い方であれば、知識が正しかろうが間違っていようが行き着く先は同じなので知る意味はない。詳しい情報ではなく、相手が気持ちよくなれる言葉を見つけ出して言ってあげなければ社会人として失格である。

だがヤフ〇クで山盗りを買って枯らすカス、テメーはダメだ。

 

2:上から潅水する

 植木鉢に植えて頭から水をかける。はい駄目。もうお話にならねーです。素人はとっとと帰れ。

 ・・とまあ、いきなり突き放しても意味が判らないと思うので解説すると、サギソウとかチドリ類のように植物体が軟質のランは、葉の付け根などに水滴がたまるとそこから腐りはじめる。着生蘭のように表皮が厚いものは(生育適温期であるならば)雨ざらしでもほとんど問題ないのだが、小型地生蘭は数日間じめじめした状態が続くと根元からスッポ抜けて死亡する。

 たまたま環境の良い作場だったりすると放任状態でけっこう育ってしまう事もあるのだが、毎年安定して育てようと思うなら栽培場に雨除けの屋根を設置することが必要不可欠になる。特に雨期や梅雨のある地方では屋根無しの作場だと過湿になっても乾かす事ができないので、絶対にどこかで腐る。

 屋内でも、頭から水をかけて葉を湿った状態のまま放置するのは危険。水差しなどを使って、植物体から離れた場所に丁寧に水を灌注するのが理想的。一度湿らせたら次回の水やりはある程度乾きはじめるまで待つ。うっかり水をかけてしまったら送風扇で風を送って乾かしたり、「カメラ用ブロアー」で空気を吹き付けて水滴を吹き飛ばしておく。

(念の為申しあげておくが、どんな場合にも絶対に葉を濡らしていけないわけではない。通風不良の状態で湿りっぱなしにすると病原菌が繁殖して腐りはじめるという話なので、条件しだいでは時々葉を洗いながしてやったほうが良い場合もある)

 とは言っても湿度不足にしたり、用土を乾燥させすぎるのも良くない。ベストの水分加減を保てるよう調整しなければならないのだが、その「ある程度の乾き」の適正範囲が小型地生蘭の場合はものすごく狭く、会得するのが無茶苦茶に難しい。「通風が良いけれど湿度は高め、じめじめした感じにならない範囲でしっとりした状態、水切れは禁物だが停滞水は不可」言葉にすればそういう感じだが、それがどのような状態か感覚的に思い浮かべられるだろうか?

 冬に長雨が続く沖縄と乾燥注意報が出る関東、降雪があって人工照明が必須になる日本海側ではまったく違う環境調整が必要になる。高湿度で通風が悪く生乾き状態が続く作場と、毎日灌水しないと表土がカラカラになる全日照サンルームを同一には語れない。用土や鉢の材質・形・大きさによっても乾き具合は異なる。そういう違いに合わせた調整手段は作場ごとに異なり、一般化して語るのが難しい

 園芸用語で俗に「水掛け3年」と言うが、小型地生蘭の場合、3年で自分の作場に合った水分量を把握できたら達人の領域だと思う。通常であれば人工増殖されたイワチドリやウチョウランを練習台にしてあらゆるバッドエンドを経験し、ようやく回避ルートが見えてくる「死にゲー」である。(ただし栽培環境がムチャクチャ好適地だったり、小学生の頃から何か育てていて基本ができていたり、天才だったりする場合はこの限りではない)

 状況によっては鉢受け皿に水をためて底面給水しながら株元のほうは乾きぎみにしたり、送風機で常時ゆっくりと風を送ったり、殺菌剤で消毒して腐敗を防いだり、室内管理の場合にはLED照明で補光して植物体が軟弱化しないようにしたり、人によってさまざまな工夫を加えているがこれについては環境にもよるので、絶対的な正解というものが無い。

まあ上を目指すときりが無いのだが、

「雨に当てない。頭から水をかけない。」

最低限これだけは覚えて帰っていただきたい。

 

(その2に続く)

*関連記事は最上段タグ「オキナワチドリの栽培」をクリックしてください。

 

 

(この章はここから先、ただの愚痴しか書いてないので読まなくて良いです)

 

ーーーーーーー立ち入り禁止ラインーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 それでまあ、頭から水をかけるな、とか言うと今度は着生蘭でも頭から水をかけずに管理する方がいたりもする。

 一定数の方々はいっっくら説明しても「何故そういう事をしなければならないのか」という理由を自分では考えない。

 「努力しなくても皆と横並びの行動ができる」定型者は、何も考えず周囲と同じ事をしていれば社会的に問題なく生きていける。「Why: なぜ」を考えるとエネルギーを使うので「How: どのように」だけを学習し、節約した思考リソースは対人戦略に全振りする。他人との交流が無い活動には興味が持てず、群れに同調したくて他人の行動を真似「してしまう」のはほとんど本能に近い。皆と同じ行動ができない者を理解できず、反意や悪意で逆らっているとしか思えない。

 目の前にいる人間の「お気持ち」に合わせる(最低でも共感している演技をする)のが対人交流の基本。それを無視して理屈や正論を言う者は、人の心を傷つける嫌な奴なので罰を与えて改心させなければならない。

 誰かが楽しそうに育てていたら話を合わせられるように同じものを買い何も考えずに育てている人の真似をして、真似事しかできずに枯らすのが定型的社会人の「楽しみ方」であり、最も一般的な「栽培」である。やりたいのは誰かと同じことを一緒にする(それによって他人と関われた気になる)ことであって、ガチの栽培ではない。話に加われれば植物は枯れても良い

 どんな植物でも普通の草と同じように頭から水をかけ、それで腐る草であればそのまま見捨てて、失敗した理由を考えないのが「普通の人」の育て方である。普通の人は、良くも悪くも普通でない事ができないように生まれついている。

「え? 植物を入手したら育て方くらい調べるほうが普通なのでは?」と思った方がいたら言っておこう。定型者は植物を育てたいわけではない。お花を飾って眺めたいのであって、世話はしたくない。現代人は限りある時間を植物ごときに浪費するほど暇ではない。

 また、あらゆる階層を含めた「平均的な人」の場合、育て方を調べても説明文が3行を超えていると目が滑って読めない。

 人類の大部分は対人交流に特化しているので、人間と会話しないと情報が頭に入ってこない。誰かが話している動画に重要な単語だけ字幕でつけたものなら耐えられるが、文字情報だけだと頭が拒否する。

 「文章で読めば5分で判る情報をなんで15分もかけてYoutubeで視聴せにゃならんのだ!」と思うのは少数派で、「普通の人」は人間の表情や口調から情報の優先度を読み取り、目で見た行動をそのままコピーして動いている。映像や肉声の無い文字解説を見せられてもどこが重要なのか、何をどう真似すれば良いのか判らない。

 1行以上の文章を読み取れない人も世の中には大量にいて、そういう方々のためにリーディングルーラーという読書補助具が売られていたりもする。ご存知ない方は検索してみてほしい。ちなみに3行用のルーラーは受験生の人気商品である。

 食品パッケージの成分表を暇つぶしに読んでしまうような活字中毒者には判らないだろうが、標準的な人は少し長めの日本語列を見ると、外国語の長い文章を見た時と同じように言語処理がフリーズする。長文はただの模様にしか見えないし母語であっても外国語読解と同じぐらい精神集中しなければ読む事ができない。日本語情報をちょっと検索するだけで外国文献を探すよりも気力が吸い取られる。

 頑張って調べてもネットにはニワカが語るガセ情報が氾濫している。かといって昭和時代の書籍記述はもう時代遅れになっている。というか平成以降にアップデートされた(一冊の本にまとめられていない)情報があまりにも多く、一般人に「調べなさい」と言うのはただのイジメである。「ググれないから答えだけ教えろ」と誰かに聞く方はそれだけで標準よりも上である。(そしてニワカに教わって爆死する)

 また、アスペが「どう答えれば相手は機嫌が良くなるか」を読み取れずに相手を怒らせてしまうのと真逆に、説明文から感情以外の情報が読み取れない逆アスペとでも呼ぶべき方々も、世の中には一定割合で存在している。

 一般会話は相手の「お気持ち」に合わせてノリで左右していくべきもの。言葉の定義を追求したり、真実や最適解を堀り出そうとするのは非礼である。「文章に書かれていない内容を読みとるな、文章どおりに読み取れ」と言われても、そんな狂った指示には従えない。それは対人交流では「やってはいけない事」である。

 言葉には嘘があるので文面通りに受け取るな。文章を読まずに空気を読め。人間は嫌な奴の意見だと正しくても認めないし、好感を持てば間違った意見でも賛同するから、正誤ではなく言い方の巧拙で勝負が決まる。会話で重要なのは話す内容ではなく、口調と表情と話しかけるタイミング。論理を語るな、感情に訴えろ。これが対人に特化した逆アスペの思考である。

 そういう方は文章マニュアルも文面通りに読まない、というか読めない。単語だけ見て頭に浮かんだイメージから内容を想像し、文意からズレた情報をまったく無自覚に「読みとって」しまう

 「条件を整えなければ育てられません」と書いておくと、「その条件とはどのようなものですか?」ではなく「誰にも育てられないので無価値な草です」「誰でも育てられるので(何も準備せずに)すぐ買いましょう」と自分の主観で0や100に脳内補正する。

 「10℃以下にすると危険です」と書いておくと「危険だけれど凍らせなければオッケーです」に脳内変換して「説明にそう書いてありました」と真顔で主張する。読みとりの解像度が荒いので、事実と妄想の線引きができない。(ちなみに多動系の方は、正しく理解できても勢いよく実験路線に突っ走る)

 そこまで理解力が偏った方はそれほどいないだろう、とお思いだろうか? 

 国際成人力調査の文章読解力判定(レベル1~5に分類)によれば、日本人はレベル1(最低ランク)以下の方々が3割を占めている。「文字は読めるが文章は読めない」方は社会全体で見るとむしろ普通、統計によれば文章を文章通りに読み取る人は10人に1人しかいない。

 下記リンク先に読解力テストの例文がある。ツイッター程度の短文だが、単語だけ眺めて文意を推測している方だと、高率で答えを間違うように設問されている。「こんなもの読み間違うわけないだろ!」と「こんなもの見ただけで判るわけないだろ!」というグループに二極化するようだが、社会全体では後者のほうが多数派の模様。

 同じように「人の気持ちが読めない奴はおかしい!」と「見ただけで判るわけないだろ!」という人がいる。読める人は努力しなくても読めるので、努力しても読めない人がいると言うと「嘘だろう」という顔になる。

 ちなみに日本人の文章読解力は24カ国ランキングで最高得点、3割がレベル1だけれど世界標準はもっと下である。

 さらに言えば、試験問題であれば「非常識な文章でも文章通りに読んで、非常識に添った答えを返す」アスペ仕草が正解になるが、現実では真情報とガセ情報、本当だけれど現実的ではない情報、嘘ではないが肝心な部分が抜け落ちた(そのまま信じると嘘になる)情報が入り混じって流れてくる。過不足なく読み取った上で、主観に流されず比較検証して実用的な部分を探し集め、欠落部分を見つけ出して補完していく技能ーー「情報リテラシー」と呼ばれる上位能力を使ったバトルが行われている。

 現実社会では文章が読めるだけでは勝ち組にはなれない。嘘は嘘と見抜いた上で、嘘の中に隠れた真実、真実に隠された嘘を見抜けないと正しく理解した事にならない。

 そして理解しても「実際にできる」能力がなければ能書きバカに留まるし、理解していなくても(人真似で問題ない事なら)何も考えずに真似できる方のほうが勝つ。

 というか人類は本来、文字だけで情報をやりとりする能力を持っていない。文字情報を理解できないだけでなく、自分がやっている事を文字情報にして伝える事もできない。定型者は定型者を見て真似できるので、「そんな事は言わなくても普通は判る」「考えなくても普通はできる」が社会生活の基本になっている。「普通」に合わせられない人間が一般集団に適応するのは難しい。

 なお、文章読解力は対面コミュニケーション能力、コミュニティ内に居場所を作れる社交性などーーいわゆるコミュ力(りょく)とは無関係である。定型的な会話では論理よりお気持ちのほうが重要なので、理解力よりも相手を気持ちよくする表情や言い方を反射的にできるほうが対人的な評価は高い。「文章は読めないが空気が読める、対人営業の得意なモテ男」が存在する可能性もある。(その逆の人間は研究職の中にたくさん・・いや何でもない) 

 このブログの冗長な文章を好き好んで読んでいるとしたら、長い文章が読めるあなたは「普通」ではない。(褒めてない)

 普通の人はスポーツが好きでも筋トレは苦行だし、音楽が好きでも楽器の練習は楽しくないし、漫画が好きでもデッサンの勉強はしなくないし、花が好きでも育て方を調べたり工夫したりするのは苦痛でしかない。大多数の人間は基本を積みあげる事に楽しさを感じないし、そこまでしてできるようになりたいとも思わない。努力を努力と感じない人は、その時点ですでに特殊な才能がある。(ちなみに定型者は対人交流を努力と感じない)

 つまるところ「普通の人」は、育て方を自分で調べ、植物の性質を理解し、栽培環境を植物に合わせて工夫しないと育てられない「普通でない植物」を取り扱うのは生得的に難しい。というか、昭和時代から半世紀にわたる栽培情報を把握できない人間が、自力で「栽培方法の再発見」をするのは現実的ではない。

 そして調べて面倒臭さが判れば、常識人ならラン栽培に手を出さない。理解力があったら「頑張れば育てられる」は「頑張れなくなった時点ですべてが滅ぶ」と同じ意味だと気付く

 手を出しても地道な世話が続けられない方は必ず枯らす。育て方を調べられない、調べても「文章が読みとれない」「ガセをガセと見抜けない」方はまともに育てられない。調べた上で野生蘭を育てたがるのは、情報を都合良く脳内変換してしまう人格障害者か、枯らしても平気な園芸サイコパスのどちらかである。

 しかし厄介さを理解した上で「それでも育てたい!だから枯らさない方法を勉強し、お金と時間と労力をつぎこんで何年でも地道に世話を続ける!」という情熱に目覚めた、あるいは何かの呪いがかかってしまった方もごく稀に現れる。そういう方は世間一般では既知外と呼ばれている。

 そういう普通でない栽培者が野生種を育てて一般社会に公開した場合、それを見た「普通の人」が何も考えずに真似をして、野生種保護にとって好ましくない行動をとることがしばしばある。それは理屈や正論では絶対に止められない。だからこのブログのように、商業生産されていない植物の栽培記事を公開すると社会の害悪になる。

 興味を持ってはいけない。持たせてはいけない。普通の社会に適応している人は、どれだけ教えても育てられるようにはならない。生得的に「できない」のだ、既知外以外は。

(リンク:「オキナワチドリの枯らし方(その2)」に続く)